境界線を学び始めた頃、何度も読み返した言葉「ゲシュタルトの祈り」
人との距離感に悩んだとき、
私はよく、フレデリック・パールズの「ゲシュタルトの祈り」を思い出します。
特に、
- 人を優先しすぎてしまう人
- NOが言えない人
- 「私が我慢すればいい」と生きてきた人
にとって、
深く刺さる言葉なのではないかと思います。
ゲシュタルトの祈り -フレデリックパールズ–
私は私のために生きる。
あなたはあなたのために生きる。
私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。
そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。
私は私。あなたはあなた。
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。
※この「ゲシュタルトの祈り」は、ゲシュタルト療法を創始したフレデリック・パールズの言葉として知られています。原文はいくつか訳がありますが、私はこの訳詩が好きです。
「私は私のために生きる」が怖かった
今でこそ、
「自分の人生を生きることは大切」
と言えるようになりましたが、
昔の私は、
この言葉をどこか“冷たいもの”のように感じていました。
自分を優先することは、わがままなこと。
人を優先してこそ、優しい人。
そんな感覚が、どこかにあったのだと思います。
だから、
- 相手の期待に応えようとする
- 嫌われないようにする
- 空気を読む
- 我慢する
- 背負いすぎる
そうやって、「いい人」でいようとしていました。
でも、その生き方は、少しずつ自分を苦しくさせていったのです。
境界線とは、相手を拒絶することではない
境界線という言葉を知ったとき、最初は少し怖さがありました。
線を引くなんて、冷たい人みたい。
見捨てるみたい。
そんなふうに感じていたからです。
でも今は、少し違う感覚があります。
境界線とは、相手を拒絶することではなく、
「相手の人生を信頼すること」
でもあるのだと思うのです。
そして、相手には、
自分で立ち上がる力があることを信じること。
以前の私は、共依存をまだ少し引きずっていて、
「助けなければ」
「支えなければ」
という気持ちを、愛だと思っていた部分もありました。
でも、相手の課題まで背負ってしまうことは、
時に、相手の力を信じていないことにも繋がってしまう。
だからこそ、
「あなたはあなた」
「私は私」
という境界線は、
冷たさではなく、お互いの人生を尊重することなのかもしれません。
「助けたい」の奥にあったもの
私は長い間、
「人を助けたい」という気持ちが強い人間でした。
でも振り返ると、
- 必要とされたかった
- 役に立つことで価値を感じたかった
- 相手を支えることで、自分の存在理由を感じていた
そんな部分も、
あったように思います。
もちろん、
人を大切に思うことは悪いことではありません。
ただ、
「相手の人生」と「自分の人生」
の境界線が曖昧になると、苦しさが生まれてしまう。
だからこそ、まずは自分の人生を生きること。
それが、本当の意味で、相手を尊重することにも繋がるのかもしれません。
今の現状は、過去の選択の結果
私は、今の自分の現状は、過去の選択の積み重ねだと思うようになってから、
少しずつ、人のせいにしなくなりました。
たとえ誰かに強く影響されたとしても、最終的に選んだのは自分。
そう思えるようになると、不思議と、周囲との関係も少しずつ変わっていった気がします。
「私は私」を取り戻していく
「私は私のために生きる」
この言葉は、
自分勝手に生きるという意味ではなく、
“自分の人生に戻ってくる”
ということなのかもしれません。
誰かの期待ではなく、誰かの役割でもなく、
「私は本当はどうしたいのか」
を、少しずつ思い出していくこと。
境界線とは、
そのために必要なものだったのだと、今は感じています。
最後まで読んでくださり、
ありがとうございました。


