ヴィルヘルム・ライヒ博士とオルゴンエネルギー
こんにちは、みのりです。
前回、オルゴナイトのしくみと、効果について記事を書いたので、今回はオルゴンエネルギーを発見したヴィルヘルム・ライヒ博士の人生について、シェアしていきたいと思います。
オルゴン(Orgone) とは、精神医学者ヴィルヘルム・ライヒが発見したとする自然界に遍在・充満するエネルギーのことです。
このオルゴンは、今でいう目には見えないけど存在するダークエネルギーと同じものでしょうが、まだ科学的に解明されていません。
というか、オルゴンエネルギーは、万人に証明されたわけではないようです。
その上、ライヒ博士の研究は、風変りの彼の性格や権威との折り合いの悪さなども、あいまって学術的には認められていません。
そんなライヒ博士の波乱に満ちた生涯をみていきたいと思います。
この記事を書くにあたり、何冊かの本とたくさんのネットの記事を読みました。
理系がさっぱりの私は、博士の研究が似非科学なのか、真実なのかは判断できません。
ただ、証明されないからといって、全否定するより、もしかしてそうかもと創造するほうが楽しいなと私は、思います。
この記事は、おもに下記の本を参考に書いています。
ヴィルヘルム・ライヒ博士(Wilhelm Reich、1897年3月24日 – 1957年11月3日)
ヴィルヘルム・ライヒ博士
Wikipediaより引用
オーストリア出身の医学博士、精神分析家、精神科医。
ジークムント・フロイト以降の第二世代の精神分析家の一員であり、フロイトの精神分析を信奉し、その古典的精神分析を今日的な自我心理学へと発展させた。
『衝動的性格』(1925年)、『性格分析』(1933年)、『ファシズムの大衆心理』(1933年)などの影響力のある著作があり、精神医学史上最も急進的な人物の一人として知られている。
子供時代
ライヒ博士は、オーストリア・ハンガリー帝国領だったガリツィア地方(現ウクライナ・リヴィウ州ペレムィシュリャーヌィ近郊)で、ユダヤ人の両親のもとに、二人兄弟の長男として生を受けます。
父親は牧場を経営していて、子供の頃のライヒ博士に住み込みの家庭教師を雇える裕福な家庭だったようです。
ライヒ博士は、12歳まで、住み込みの家庭教師の元で学んでいましたが、母親がその家庭教師と不倫していることに気が付きます。
そして、葛藤のすえ、父親に密告します。
(画像は、Wikipediaより)
父親は厳格で権威主義的で、嫉妬深い人物だったそうです。
なので、不倫を知り、母親をののしり長期間にわたり暴力をふるいます。
耐えかねた母親は1910年に、近くの池で入水自殺します。
自分が母親の不倫を父親に密告したことで母親が自殺し、家庭が崩壊したことに、ライヒ博士は自分を責め続けることになります。
ライヒ博士は1920年に初めて発表した論文「近親相姦のタブーを破ったケースについて」で、 夜に家庭教師の寝室に行く母親を尾行し、恥ずかしさと嫉妬を感じ、母親に「父に話す」と脅して自分とセックスさせようと思ったこともあると書いているそうです。
・・・計り知れない複雑な事情がある家庭環境だったのかもしれませんね。
母親を亡くした4年後の1914年に、今度は父親を病気で失います。
(妻を自殺に追いやった後悔で、毎日、真冬の凍った池(妻が自殺した池)に何時間も立ち続けたからだという説もある)
10代という多感な時に、母の不倫、密告、父の死の経験。
厳格で権威的な家庭で、身体を縮こませて育ち、その後の家庭崩壊。
その発端が自分の密告のせいだったという罪悪感。
これらのトラウマが、性科学への研究に没頭していく大きな要因となっていると言われています。
(博士は『父性原理に支配された家父長制社会・核家族構造』を神経症を引き起こしやすい抑圧的な社会構造だと批判しています)
青年時代
父親が亡くなり、その後、ロシア軍の侵攻により、牧場もすべてを失います。
博士は、第一次大戦中の1915年から1918年までオーストリア・ハンガリー軍に従軍し、最後の2年間はイタリア戦線で中尉として40人の部下を率いて戦ったそうです。
終戦後は、ウィーン大学で法学を学びますが、途中で、精神医学に転向しています。
(画像は、Wikipediaより)
フロイトとの出会い
そこで、敬愛する同じユダヤ系の精神分析家ジークムント・フロイトと出会います。
1919年、博士が性科学に関するセミナーのためにフロイトに読書リストを依頼したのが最初の出会いだそうです。
博士はまだ22歳の学部生でしたが、フロイトは目にかけ、同年9月に分析患者との面会を許可し、翌年1920年10月には、ウィーン精神分析協会の正会員となっています。
フロイトのもと、精神医学を学び研究します。
博士は、精神の健康と愛する能力は、リビドー(性的衝動)の完全な放出であるオルガズム(性的興奮の絶頂)の効力に左右されると主張しています。
性行為における性的解放は、それに至る高揚と調和するものでなければならなく、それはただ性交することではない、とも。
つまり抑圧されて蓄積したリビドー(性的衝動)をオルガズムで解放することで、神経症を治癒して精神の健康と、愛する能力を維持することができるということだそうです。
フロイトの唱えるリビドー論は、すべてが性本能に基づくという考えであったのに対し、ライヒ博士は神経症(ノイローゼ)は、正常な性生活の欠如が原因であり、性的満足こそが幸福の鍵だと考えていたそうです。
なので、フロイトの治療法、”患者が長椅子に横たわり、ただ話すこと”がなぜ感情の問題に対して意味のある治療法となりえるのか疑問を持つようになっていったそうです。
フロイトが、精神的な「性的満足」を唱えたのに対して、ライヒは物質的なエネルギーの流れ、「性器自体の満足」を主張し、ウィーン精神分析協会と反目していくことになります。
博士の性格や、性的解放という治療で、治療者と関係を持つこともあったようで、受け入れられにくかったようです。
のちに、ウィーン精神分析協会から異端のレッテルを貼られ、国際精神協会連合からも追放されてしまいます。
(フロイトは、ライヒ博士のことは気性は激しいが優秀さは認めています)
1933年、ナチスがドイツの政権をとった時に”ナチスが扇動したファシズムは性的に抑圧された潜在的なノイローゼ患者たちが、サディズムに目覚めた集団心理の現れだ”とする『ファシズムの大衆心理』という論文を発表しました。
この時、博士はデンマークに亡命しているとはいえ、博士はユダヤ人です。
信念があり勇気ある人ともいえますが、とても危うい人だとも感じます。
この論文は、ナチス・ドイツ政権によって危険視され、1934年にノルウェーへと亡命します。
ノルウェーでの研究
博士はノルウェーに亡命後、オセロ大学で、”性エネルギーと電気”との研究を重ねます。
この研究の過程で博士は、被験者の性的興奮が高まるにつれて皮膚表面の電圧が上昇することを発見。
一方で、この時期、顕微鏡観察によって、滅菌した肉汁の中に青白く光る小胞(バイオン)を発見します。
直径1ミクロンほどの小胞で、内側から青みがかった淡い光を放ち、不規則に脈動していました。
さらに、この小胞は、ファラデーケージにいれると、さらに発光し、それはもとのバイオンを取り出しても光っていたそうです。
そのことからライヒ博士は、これは宇宙に偏在する未知のエネルギーだと考え、これを「生命体(organism)」と「オーガズム(orgasm)」を組み合わせ「オルゴンエネルギー」と名付けます。
そして博士の研究は生命の神秘へと大きく方向転換していきます。
ちなみに、バイオンを発見したのではなく、再発見したというほうが正しいみたいです。
バイオンを発見したのは有名なフランス人科学者、H・チャールトン・バスチャンだ。
A・コリンズ著「宇宙に満ちる超パワー、オルゴン生命体の謎」より引用
19世紀のルイ・パスツールと同時代の人物であるバスチャンは自著「生命の始まり」で、バイオンは病原菌や不健康状態に関係があると、くわしく説いている。
しかしあいにくなことに、同時期にパスツールによる細菌学上の新発見があったのでバスチャンの業績はほとんど消えてしまい、バイオンも忘れられてしまった。
ライヒ博士は、バイオンが、必ず腐敗物から放出されることを立証します。
研究の結果、バイオンには確かに固有の性質があり、他のバクテリアを攻撃するらしいこと、金属に入り込むこともあるし、石炭や砂のような無生物の中にも存在しているとわかりました。
また、体内のバクテリアの作用を打ち消す機能があることから病気の治癒にも効果があるのではと思い、後に、ファラデーケージを改造し人が入れるぐらいのボックス(オルゴン集積器)をつくります。
このボックスは、鉄と有機体とを層にした板でつくられていて、この箱の中に入った人からは、「体温が上昇する、青白の光が見える、病気が治る」等の報告がされたそうです。
(画像はWikipediaより)
1939年、オルゴナイトの原点といわれるオルゴンエネルギーを発見したライヒ博士ですが、博士の研究はノルウェーでも受け入れられず、アメリカに移住することになります。
博士、アメリカにわたる
ただ博士の研究は、一部の人達には強い支持があったようです。
博士は気性が激しく、衝突が多い反面、舌弁で、カリスマ性があったようです。
支持者の計らいのもと、1939年にニューヨークに到着。
オルゴノンでの事故とクラウドバスター
翌年、ニューヨークからメイン州に引越し、支援者からの支援をうけオルゴンエネルギーの研究所”オルゴノン”を設立。
1951年、ライヒ博士はラジウムの放射能をオルゴンエネルギーで中和できると期待して実験したところ失敗してしまいます。
放射能の影響でオルゴンエネルギーが「Deadly Orgone」(死のオルゴン:DOR)に変化してしまったのです。
結果、実験にかかわった全員が肉体的にも精神的にも変調を訴え、研究は中止されます。
このとき、研究所の上空には、黒い雲が1ヶ月消えなかったそうです。
博士は、これを改善するために、クラウドバスター(気象制御装置)を発明、これを使い上空の黒雲を消したというから、すごいです。
オルゴンもDORも水に引きつけられるところから、ライヒは長い金属パイプをDOR雲に向け、パイプにつないだケーブル線を深い井戸に入れ、雲のエネルギーを吸引することを考えつきます。
天候さえも操るヴィルヘルム・ライヒの「クラウドバスター」より引用
これが、DORに限らず、大気中のオルゴンエネルギーを分散、あるいは集中させる「クラウドバスティング」という技術であり、ライヒは水中にアースした中空のパイプを数本束ねた装置「クラウドバスター」で何度か気象コントロールを行い、成功を収めたとされています。
彼はこの機器をクラウドバスターと呼んだ。クラウドバスターを雲に向けて引き金を引くと、放射されたオルゴンによって上空の雲を消去することができ、数度の実験に成功したという。
こちらの記事にもクラウドバスターのことを書いています↓
UFOの発見!?とFDAからの訴訟と投獄
1954年には、アリゾナ砂漠でクラウドバスターを使った降雨実験を行い大成功をおさめます。
この頃、博士はUFOを目撃し、DOR利用か侵略目的の宇宙人のものだと、クラウドバスターで撃墜の必要を世に訴えます。
(画像は、Wikipediaより)
1956年、FDA(アメリカ食品医療薬品局)から、オルゴンエネルギーを応用した医療機器の販売が、がん治療機の不法製造販売にあたるとされ訴えられます。
博士は、警告を無視したり、裁判所で『オルゴンエネルギーを暴発させて大洪水を引き起こしてやる』など発言をしたため、法定侮辱罪で刑務所に収監されることになります。
彼の研究資料や機材は、訴訟のあったオルゴンアキュームレーター以外のものまで、すべて処分されています。
そして1957年11月3日、ペンシルバニア州にあるルイスバーグ刑務所で心臓発作を起こし、60歳の波瀾に満ちた人生に幕をおろします。
この日は、仮釈放の申請の日だったそうです。
博士は、異端の科学者と言われるだけあって、自分の信念を曲げないどころか、自分の成果を認めない人を馬鹿扱いした暴言などあったそうです。
認めて貰えないどころか、研究成果を、破壊され、処分されています。
変人、病んでいると思われても仕方ない状況だったのかもしれません。
ただ、もし、本当にオルゴンエネルギーで病気が治ったら、製薬会社や医療業界は不要になってしまいます。
一度は、保釈金を払い、出所していますが、もう一度収監されています。
それは、機器を州外に出してはいけないのに、、顧客を装ったFDAの検査官が要求し、彼の同僚の1人が差し止め命令に違反してアキュムレータの一部を郵便で別の州に送ったというのは、はめられた感が否めないと思いました。
その後、この研究はロシアでされていたとか…。
アメリカで研究しようとすると、邪魔をされるとか…。
真実はいかに?って感じました。
ミステリーサークルは、このオルゴンエネルギーが関係しているとの本もあります。
オーロラも、地球が青く光っているのも、実はオルゴンエネルギーだとか。
古い本ですが、オカルト好きにはたまらない内容になっています。