サイト立ち上げに至った私のバックグランド
ご訪問ありがとうございます。管理人の美ノ凛です。
私は、最近ようやく、幸せになってもいいと思えるようになりました。
正確にいうと、幸せになりたいと思う反面、離婚により家族をバラバラにしてしまった自分への戒めで、幸せを感じることに罪悪感がありました。
それが、もういいかなと、自分を許せはじめました。
子供の頃から生き辛さを抱えていたのに、心の支えだった「私は幸せな家庭をつくる」ことが出来なくて、さらに無価値感、無力感に苛まれることになりました。
自分が、内向的だから…
自分が機能不全家族だったから…
自分が弱かったから…
自分がもっと強ければ、離婚を回避できたのではないか?
私が健全ならば、どうにかなったのではないか。
その思いが、べったりと貼りついていました。
それが、最近、私だけの問題ではなかったことに気付くことができました。
カサンドラ症候群を知ったからです。
前から名前は知っていました。
でも、定義がアスペルガー症候群の配偶者とあったので、関係ないと思っていたのですが、長男がアスペルガー傾向があると診断され、調べてみました。
そのなかで、救われたことがあります。
カサンドラ症候群の者は悩みを他者に理解してもらうことが難しい。第三者は以下のような疑問を抱くためである。
Wikipedia カサンドラ症候群より引用
なぜ気づかないのか
アスペルガー症候群の配偶者との関係は必ずしも初めから悪いわけではなく、コミュニケーションが困難であることの積み重ねによって悪化していく。
マクシーン・アストンの調査によると、妻がカサンドラ症候群の場合であれば、初めは女性がアスペルガー症候群男性を助ける役割を担うことが多い。
アスペルガー症候群男性の子供のような無邪気さと、穏やかで受動的な性質に惹かれた女性は、やがてアスペルガー症候群男性がいつまでたっても感情を表さないことに気づく。
原因は子供時代にあるのではないかと考え、感情表現と愛情を注いで彼を助けよう、気持ちの表し方を教えてあげようとする。
これは無意識のうちに行われる。
しかし、時間の経過とともに、簡単に変えられる性質ではないことがわかってくる。
気づくまでに何年もかかることもある。
女性がどんなに努力しても、彼は気持ちを表さないので、「私のことを好きではない」と思い、苛立ちと憤りがつのっていく。そうなると、夫が何をしてもしなくても妻の気に障り、怒りっぽくなる。一方、夫はいったい何が起きているのかわからない。
マクシーアストン
英国在住の自閉症スペクトラム専門の認定カウンセラー・トレーナー・指導者。
いつも、不安で、どうすれば楽になれるのか、わけのわからない恐怖から逃れたいと、いろいろな本を読み、カウンセリングを受けセラピーを試してきました。
このサイトは、そんな私が経験し実際に救われたと思える本や考え方を紹介しています。
私は医師でもカウンセラーでもないので、平等性に欠けるかと思います。
ただ、私と共通する環境や気質の方には、共感していただけ、参考になればと思い、恥ずかしながら生い立ちを記しました。
どういう問題が絡んでいたのかも触れていますので、ご一読いただければ、幸いです。
私がどう受け止め、感じたかを伝えたくて、私目線で書いています。
相手には違った思いがあったのかもしれませんし、相手を非難する意図はありませんこと、ご理解ください。
繊細で内向型気質で機能不全家庭で育つ
私は田舎町で4人兄弟の3番めに生まれました。
父は、商売をしていて、小さな町の議員もしていました。
青少年育成に力を入れていて、ボーイスカウトの団長、PTA会長など名刺の裏には、肩書が山ほどありました。
実際に、地域への貢献度は高く、勲章もいただいています。
情熱も尊敬します。
ただ、酒癖が悪かった…。
酔うと、「お前らが生きていけるのは、俺が一生懸命働き、守っているからだ、お前らは何の役にもたたない」と説教されました。
好きで生まれてきたわけではないし、出来ることなら、しゃぼん玉のように消えたい。
どうせ、自分がいなくなっても何も変わらないんだからと、本気で思っていたけれど、死ぬのは怖かったです。
それに、未知の社会にでることは、父の存在より怖かったのです。
家にいるのも辛いし、家を出るのもこわい。
そんな自分の弱さも嫌いでした。

性格は内向的で、幼少の頃は、いつも兄や姉の後にくっついていました。
田舎だったので、みんなが知り合いで、年齢関係なく遊んでいました。
それが、就学して新興住宅地に引越しをすると、学年問わず遊ぶことはなく、私は一人でままごとや人形遊び、塗り絵などしてました。
そういう時間が、すごく癒されて私には必要な時間でした。
空想するのも好きで、学校でも、ぼーっとしてることが多かったと思います。
少ないけれど、すごく仲良しのお友達もいたし、外で元気に集団遊びをしたいとは全く思わなかったので、教室で本を読んだり絵をかいたりしていました。
それが、小学3年生のときに、おとなしすぎると、学級会の課題になりました。
母親から友達が少なくて心配と相談を受けた担任が、気を利かせて(?)、「みんな、友達なんだから一人でいるみのりちゃんに声をかけよう」といった提案だったのかも知れません。
覚えているのは、吊し上げにあった、そんなみじめな気分だったことだけ。
正直、自分では困っていなかったし、変だとも思っていなかったのでショックでした。
何よりも、誰にも迷惑をかけていませんでした。
だけど、その時から、「ひとりが好きな私、インドア派の私はおかしいんだ」そう恥じるようになりました。
人の顔色をみたり空気を読むことは出来たので、それ以来、全神経を使いアンテナを張り巡らし、ひとりで浮かないように心がけました。
家でも、外でも気が抜けず、めまいがひどく、お腹がかき回されるような、モヤモヤ感に悩まされていました。
母には、怒られた記憶がありません。
そして抱きしめられた記憶もありません。
昔は忙しくて余裕がないからと思っていた(思いたかった)けれど、世話はしてくれるけど情緒的な交流をあまり必要としていなかったように思います。
父が母に、子供のことは二の次でいい、俺のことを第一にしろとよく言っていたので、自分から声をかけたり甘えることを遠慮する子供でした。
それで、さらに孤独を感じることに。
夕食は、苦痛の時間でした。
父は夕食を家族そろって食べたい人で、最初は機嫌が良いのだけど、思い通りに母が準備してくれないと、お酒の力もあり、機嫌が急降下です。
父がイライラしていく様子を私は、敏感に感じ、びくびくドキドキで、味などわかりません。
でも、当の母は、わかっていないように見えました。
殴ったりすることは、まれでしたが、お皿が飛ぶことは、しょっちゅうでした。
希望と落胆の結婚生活

そんな子供時代だったので、10代のころは、自分を救ってくれる白馬の王子を求めていました。
結婚してこの家から出ていく、それが心の支えであり希望でした。
素敵な男性と出会い、子供に寂しい思いなんてさせない優しいお母さんになるんだと、そう信じていたし、そうなると思えました。
そんな夢を描き、20代前半で結婚。
2人の子供にも恵まれました。
誰から見ても、夫は優しい人でした。
対人緊張が強い私の警戒心をゆるます人懐っこさもありました。
ただ彼も、誰に対しても心を許すタイプではなかったです。
だけど、結婚生活は10年でピリオドを打つことに。
はじめて、彼の家にお邪魔したときに、誰も人の話をきいていない状況に驚きました。
会話はキャッチボールというだけあって、誰かが話をして、それに対して答えるというものだと思っていました。
それが、自分の話したいことを話して、その返球など待っていないかんじでした。
会話にならない…。驚きの衝撃でした。
でも、夫が家族のことを、すごく誉めるので、その大きな違和感を呑み込んでしまいました。
一種の現実逃避ですね。

その違和感は的中。
姑は、勝手に妄想して、それを現実だと決めつけるところがありました。
始めは、そうじゃないかという妄想なんだけど、いつしか現実だと言い出す。
矛盾をついても、前のことは忘れているのか、知らないという。
夫が寄り道をすると、「ごはんを作らないから家に帰りたくないんじゃないか」と電話をしてきたり、「子供にご飯を食べさせていないから大きくならない」とか…。
姑は親戚に嫌がらせされるとか、近所の人に妬まれてるとか、よく人の悪口を言っていたけれど、夫は被害者だという姑の言い分を信じ同情していました。
その、親は完璧だと信じる夫の客観性のなさに、引いてしまったのですが、決定的な出来事が起こりました。
私と姑の話が食い違った時に、「うちの母は嘘をつかない」と、夫が言い、「母がいないとムリだ」と言われて、私があなたと無理かもしれないと離婚を決心しました。
姑と話が食い違った時、自分は聞いていないのだから、「わからない」でいいのに、「うちの母は嘘をつかない」=「私がウソをついた」と言ってることに、まるで気づかないようでした。
彼は、うちの母は偉大(?)だから、何があっても大丈夫、僕はもちろん、みのりちゃんも、従っていれば、何も問題ないと、心から信じています。
親に新車をねだり、買って貰えると「みのりちゃんも幸せやな、こんな車を買って貰えて」と無邪気に喜ぶ夫をみて、違和感を感じました。
そういう見方もあるかも知れないけれど、私は素直に喜べませんでした。
親になったら、一番に考えるのは子供のことだと思うけれど、彼は子供のままでした。
うまく伝わらないかもしれないけれど、コミュニケーションが一方通行なんですよね。

私は信頼し合う人と結婚し、安心安全な家庭を築く!
そういう強いおもいで結婚したのに、うまくいかなくて、自分がヒステリー化していくのがわかりました。
一生懸命やっているのに、自分だけが、孤独で悪者にされていく。
今にして思うと、カサンドラ症候群( パートナーの共感応答力欠如により、心を通い合わせられない孤独と、周囲に理解してもらえない2つの孤独に苛まれる状態 )だったと思います。
だけど、当時はそんな情報もなく、機能不全家族で育った私に問題があると自分でも責めていました。
夫も姑にも、私がおかしいと言われ、鬱傾向に。
生き辛さを抱えてはいたものの、アダルトチルドレンならではの、従順な良い子ちゃんだったので、今までダメ出しされたこともなく、壊れるかもしれないと、思いました。
DV夫でも、ギャンブル症でもない、浮気もない。
なのに別れるなんて、我慢が足らない、我がままだと言われました。
ただ、唯一、相談していた弁護士だけが新しい人生を応援してくれました。
「これから貴方がどう生きていくか、子供はちゃんと見ています。恥じないよう生きていれば子供は、いずれ、きちんと判断し理解してくれます」とアドバイスをくれました。
自分の足で歩く

離婚した当初は、自分の決断(離婚)に自信が持てず、悩みました。
今は、あの時に弁護士が、背中を押してくれたことに感謝しています。
シングルマザーの日々は、大変だったけど、充実していました。
空の巣症候群と不安症
だけど、子供が成長し、自分が老いていくことに、生きる力を失っていきました。
これから、どんどん自分は役に立てなくなっていく、そんな未来しか想像できなくなり、子供の頃に感じてた、お腹を掻き回されるモヤモヤ感が頻繁に起こるようになりました。
病院に行くと不安症と診断。
今は、選択的セロトニン再取り込み阻害薬 (SSRI)のセルトラリンを服用しています。
最初の1年は、ただただ、だるくて眠たかったです。
仕事を辞めていたので、ほとんど寝ていました。
というか、仕事にいけない状態。

まさしく、休眠の時期でした。
この1年の休眠があったから、○○すべきだ思考から解放され、何とかなるもんだと方向転換できた気がします。
今は、薬の効果なのか、未来を考えて幻滅することもなくなり、自分らしい生き方を模索するエネルギーが戻ってきました。
子供たちも、片親だということで、心細いことや苦労もあったと思いますが、ありがたいことに大事にしてくれています。
と、私は感じています(笑)
これから

完璧な人間も親もいないわけで、多かれ少なかれ、子育て中にトラウマなど与えてしまいます。
でも、自分もそうだったように、トラウマを乗り越えるための学びが成長につながっているように思います。
だからといって、子供時代に戻りたいかというと、絶対嫌だし、子供の虐待を許してはいけないです。
過去の囚われで、生きる気力を失うこともあったけれど、今は死ぬときに、「我が人生悔いなし」と思いたい。
そう思えるよう、残りの人生を過ごしていきたいです。
最後まで、お読みいただきありがとうございました。