私のバックグランド

砂時計の画像に私の生い立ちの文字 サイトについて
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自分を責めることが一番平和

ご訪問ありがとうございます。管理人の美ノ凛です。
私は、最近ようやく、幸せになってもいいと思えるようになりました。

正確にいうと、幸せになりたいと思う反面、離婚により家族をバラバラにしてしまった自分への戒めで、幸せを感じることに罪悪感がありました。
それが、もういいかなと、自分を許せはじめました。

子供の頃から生き辛さを抱えていて、当時の心の支えだった「私は幸せな家庭をつくる」ことが出来なくて、さらに無価値感、無力感に苛まれることになりました。

自分が、内向的だから…
自分が機能不全家族だったから…
自分が弱かったから…

自分がもっと強ければ、離婚を回避できたのではないか?
私が健全ならば、どうにかなったのではないか。
その思いが、べったりと貼りついていました。

でも、子供が自立するまでは、二人だけの家族とはいえ、私は世帯主。
私が矢面にたって、守らねば!その気合だけで、何年も走り続け、とうとうガス欠になりました。

50代を過ぎたころ、更年期と、空の巣症候群もあいまって、何もかも投げ出したくなりました。
そして、心療内科に駆け込み、不安症と診断されました。

繊細で内向型気質で機能不全家庭で育つ

私は田舎町で4人兄弟の3番めに生まれました。
父は、商売をしていて、小さな町の議員もしていました。
青少年育成に力を入れていて、ボーイスカウトの団長、PTA会長など名刺の裏には、肩書が山ほどありました。
実際に、地域への貢献度は高く、勲章もいただいています。
情熱も尊敬します。

ただ、酒癖が悪かった…。

酔うと、「お前らが生きていけるのは、俺が一生懸命働き、守っているからだ、お前らは何の役にもたたない」と説教されました。(実際にはもっと、汚い言葉)

好きで生まれてきたわけではないし、出来ることなら、しゃぼん玉のように消えたい。
どうせ、自分がいなくなっても何も変わらないんだからと、本気で思っていたけれど、死ぬのは怖かったです。
それに、未知の社会にでることは、父の存在より怖かったのです。
家にいるのも辛いし、家を出るのもこわい。
そんな自分に信頼など持てませんでした。

桜の花と小学生

性格は内向的で、幼少の頃は、いつも兄や姉の後にくっついていました。
田舎だったので、みんなが知り合いで、年齢関係なく遊んでいました。

それが、就学して新興住宅地に引越しをすると、学年問わず遊ぶことはなく、私は一人でままごとや人形遊び、塗り絵などしてました。

そういう時間が、すごく癒されて私には必要な時間でした。
空想するのも好きで、学校でも、ぼーっとしてることが多かったと思います。

少ないけれど、すごく仲良しのお友達もいたし、外で元気に集団遊びをしたいとは全く思わなかったので、教室で本を読んだり絵をかいたりしていました。

それが、小学3年生のときに、おとなしすぎると、学級会の課題になりました。

母親から友達が少なくて心配と相談を受けた担任が、気を利かせて(?)、「みんな、友達なんだから一人でいるみのりちゃんに声をかけよう」といった提案だったのかも知れません。
覚えているのは、吊し上げにあった、そんなみじめな気分だったことだけ。

正直、自分では困っていなかったし、変だとも思っていなかったのでショックでした。
何よりも、誰にも迷惑をかけていませんでした。

だけど、その時から、「ひとりが好きな私、インドア派の私はおかしいんだ」そう恥じるようになりました。(昭和の時代だったので)

人の顔色をみたり空気を読むことは出来たので、それ以来、全神経を使いアンテナを張り巡らし、ひとりで浮かないように心がけました。

ただ、それは自分の世界から抜け出すことで、社会スキルが身につくことに反して自分を失っていったように思います。

家でも、外でも気が抜けず、めまいがひどく、お腹がかき回されるような、モヤモヤ感に悩まされていました。

母には、怒られた記憶がありません。
そして抱きしめられた記憶もありません。

昔は忙しくて余裕がないからと思っていた(思いたかった)けれど、世話はしてくれるけど情緒的な交流をあまり必要としていなかったように思います。
(求めることを諦めたら、楽になり、今は、とても仲良しです)

父が母に、「子供のことは二の次でいい、俺のことを第一にしろ」とよく言っていたので、母の負担を増やしたくないと自分から声をかけたり甘えることを遠慮する子供でした。
それで、さらに孤独を感じることに。

夕食は、苦痛の時間でした。
父は夕食を家族そろって食べたい人で、最初は機嫌が良いのだけど、思い通りに母が準備してくれないと、お酒の力もあり、機嫌が急降下です。

父がイライラしていく様子を私は、敏感に感じ、びくびくドキドキで、味などわかりません。
でも、当の母は、わかっていないように見えました。
殴ったりすることは、まれでしたが、お皿が飛ぶことは、しょっちゅうでした。

無限の愛を湧き出すには、やはり、共感してもらう喜びが必要

自分が、結婚し親になって、父の気持ちがわかるようになりました。

父の孤独感と、良い人で頑張るも、キャパオーバーを起こし、酒に走る。

父もまた、繊細だったので、人よりもいろいろ気づき、相手に尽くすのですが、自分が求めてるほど、かえってこない。
共感の言葉も得られない。

あの時に、誰かが味方で支えになってあげたら、「俺にも愛をくれよ!」の裏返しの悲しい叫びをあげなくて良かったのかもしれない。

母に悪気がないのが、わかるので、よけい苦しかったのではと思います。

繊細な人は、自分が共感をたくさん必要とするので、相手にたくさん、あげすぎてしまいがちです。
自分がギリギリでも、あげてしまう。
無限の愛は素晴らしいですが、これは、ある意味苦しめる言葉だと思います。

無限の愛を湧き出すには、やはり、共感してもらう喜びが必要だと強く感じます。

自分が人より繊細であるように、人より鈍感な人もたくさんいるのです。

鈍感より繊細が優れてるとかじゃなく、求める共感の量が違うんです。

なので、一緒にいると枯渇するのは自然なことなんです。

だから、自分を責めないでほしい。心からそう願います。

機能不全家族で育ち、親になると子育てに苦戦しがちです。
子供にトラウマを与えたのかもと、悔やみ悩むこともあります。

でも、かつての自分もそうだったように、トラウマを乗り越えるための学びが成長につながっているように思います。

だからといって、子供時代に戻りたいかというと、絶対嫌だし、子供への虐待を許してはいけないです。
過去の囚われで、生きる気力を失うこともあったけれど、今は死ぬときに、「我が人生悔いなし」と思いたい。
そう思えるよう、残りの人生を過ごしていきたいです。

この世界は仮想世界かもしれない

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私は、この世界は仮想世界の可能性が大きいと思っています。
数年前なら、「やばい」と思いましたが、ここ最近の目覚ましい量子力学の発展により、信憑性が高まってきています。

最新の量子力学の理論のひとつでは、物質の最小単位は、弦ではないかと言われています。
その弦の振動によって、種類がわけられるそうで、もとを辿れば、一つの弦だそうです。

それを知ったときに、昔から言われる「思考は物質化する」という言葉が頭に浮かびました。
弦だから、共鳴してから引き寄せるんだと、腑に落ちました。

第六感、第三の目、虫の知らせといわれるものも、真実味が帯びてきます。

この世界がプログラミングされたものだとしたら、創ったのは、高度な知的生命体なのか、未来の人類なのか、はたまた神様なのかはわかりません。

ただ、何かの意図があったと思うのです。

私自身の意図も含まれているかもしれない。

だとしたら、人生の後半、それを探求し楽しみたいと、思ってます。

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