はりねずみのジレンマ、程よい距離が毒を制す
こんにちは、美ノ凛です。
生き辛さは、幼少期の愛着障害が関係しているそうです。
少し前から、”毒親”とついたタイトルの本も、よく見かけます。
かなりのインパクトを与える言葉で、アダルトチルドレンだけど、親でもある私には、ちょっと刺激的でした。
親のことを毒親と言うことに抵抗を感じたし、子供にとって自分が毒親だったと思うことも胸がチクリとしました。
毒になる親(どくになるおや、英: toxic parents)は、毒親(どくおや)と略し、毒と比喩されるような悪影響を子供に及ぼす親、子どもが厄介と感じるような親を指す俗的概念である。1989年にスーザン・フォワード(英: Susan Forward)が作った言葉である[1]。学術用語ではない。母の場合は毒母、毒ママ[2]、父の場合は毒父[3]等と称されている。スーザン・フォワードは「子どもの人生を支配し、子どもに害悪を及ぼす親」を指す言葉として用いた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
私の経験からすると、親の支配や依存に気づき、適度な距離をとることが、一番だと思います。
でも、子供って親のことは大好きで、親の期待に応えたいし、しがみつく親を引きはがすって、ひどい罪悪感に悩まされて、とてもできない。
毒親だとは、思っていないことも、多いんじゃないかな。
愛してくれてるからだって。
なので、こういう本を読んで、自分のこと、親のことを冷静に分析・観察してみることが、程よい距離感を持つために、一つの通過儀礼として必要なのかなと思います。

はりねずみのジレンマの話じゃないけど、近すぎて傷ついてしまうことって、親子や恋人など特別大事な人だからこそ起こるんですよね。
ただね、大好きだっていう想いは素敵なこと。
その思いがあって、近づいてイタタ・・となって、少し離れて、ちょうどよい距離を見つける。
離れることは、良い関係を築くのに必要なことがあります。
だから、もし苦しんでいるなら、そこに罪悪感を感じなくてもいいと思います。
愛情を欲してたアルコール依存の父
私の父は、アルコール依存症でした。
私が子供のころは、インターネットもなく、依存症という言葉も知らず、”アルコール中毒”という、一升瓶片手にちゃぶ台をひっくり返すような、嫌な表現しかありませんでした。
なので、私以外、家族は全力で否定していました。
世間体があるため、人に相談することも出来ません。
父はシラフの時は、立派な人で、話のわかる人でしたが、夕方の晩酌がはじまると、豹変していきました。
「醤油が出てない」「つまようじがない」と、とても、小さなことから怒りはじめるのです。
私は、その変化に敏感に反応し、恐怖で食事の味もわからなくなるのだけど、母はおかまいなくといった感じ。
その母の態度が、油のような作用をし、小さな火がみるみるうちに燃え上がり、最終的に、父が手元にある、お皿などを投げ出し、外に飲みにいくか、部屋にこもるか、母を追い出すか。
何度、割れた皿を片付けたことか。
人に向けて、投げていなかったとはいえ、子供の時は、わからなくて怖くて動くことも出来ませんでした。
外に出かけた時は、一瞬ホっとするもの、いつ帰ってきて、また暴れるのかと思うと、布団の中で怖くて震えていました。
父は、田舎の次男坊で、長男と差をつけられて育ちました。
お殿様のように育てられた長男は、あっさりと家を出ていき、父が跡をつぐことになったので、父も幼少期に理不尽な思いをしてきたのだと思います。
子供には愛情をと、思ってたようですが、見事に空回りしていました。
いつも、父を、たてまつり、感謝していないと、機嫌が悪い。
外で飲んだ時は、お土産にお寿司とか、お菓子とかを買ってきてくれました。
喜んで受け取って、一緒に食べる光景を期待してたと思うんです。
だけど、子供はすっかり寝ている時間。
眠くて、「明日食べる」と言ったら、「せっかく買ってきたのに、いらんのなら窓からほかしてしまえ」と言われ、怖くて素直に捨ててしまったら、そのあと正座で説教をされました。
昼間は「良い子だな」と誉めてくれますが、夜になるとアルコールが入り焦点の合わない目で「お前らは役に立たない」とけなされる。
気分とアルコールの量によって、態度が変わるので、気が休まることがありませんでした。
父を前にすると、機嫌が良くても悪くても、感情を動かさなくなりました。
そんな父も、ずいぶんと前に、亡くなりました。
先が短いと悟った父は、豹変しなくなり、(昼間の)気遣いのできる優しい人になりました。
それでも、私は染みついた恐怖があって、油断出来ませんでした。
亡くなってはじめて、安心して父のそばに座り、顔をみることが出来ました。
弱者にみえて強者だった、共依存の母
母のことは大好きでした。
弱者で被害者だと思い、「守りたい」と思っていました。
父と離れれば、平和な日々がくる、そう信じていました。
だけど、私の大きな勘違いで、母はそんなことを、望んでいなかったように思います。
母は、「別れたいけど、あんた達に苦労をさせれない」と、言っていました。
私たちがいるから、母は別れられないのかと、罪の意識を感じました。
でも、母は、父の昼間の部分、「それなりの名声と経済力」と、「片親で苦労する」を天秤にかけ、世間体を取ったのだと思います。
それと、子供にもわからない、夫婦の腐れ縁みないなのも強かったのかもしれません。
どうして、母は「別れる」という手段で、父の恐怖から守ってくれなかったのか。
経済力さえあれば、子供の心がボロボロになってもいいの!?
自分が親になってから、そういう想いが強くなっていきました。
でも、父と私は敏感型で、母は鈍感型。
母には、心がボロボロになるほどのことではないという認識だったのだと思います。
食事中に皿が飛ぶ状況も、私には恐怖の何物でもないし、トラウマにもなってるけど、母には、そこまで、深刻ではなかったのかもしれない。
「お父さんを一人にしたら、何をするかわからないから」と、いつか言われたけど、そんな人のそばに、子供をおく!?と違和感を覚えました。
でも、これが共依存なんですね。この人(父)は、私がいなくちゃだめだっていう。
私は、母が大好きで、たぶん好きすぎて、現実をみれていなかったように、思います。
母にどんな事情があれ、母の発言、母の行動、母の考えによって傷ついた私がいることを、きちんと認めると、母に愛されたい呪縛から解放されました。
そこには、母と私との感覚の違いがあって、理解しあえない部分が存在するのだと。
不思議なもので、理解しなえないと開き直ったら、母の愛を感じるようになりました。
不器用でも至らなくても精いっぱいだったことは認めたい
独身時代、私の心の支えは、いつか素敵な家庭をつくり、優しい母になる!でした。
そして、念願の母に。
子供に愛情をいっぱい与えられると信じて疑いませんでした。
それが実際には、私のインナーチャイルドがザワザワするんですよね。
まるで、父のよう。
こんなに愛してるのに、どうしてわからないんだ!?とイライラ。
特にはじめての子育てでは、辛くあたってしまいました。
ただ、ひとつ言えるのは、すごく必死だったってこと。
良い母親では、ない時期もあったけど、何度やり直しても、あれが精いっぱいだったと思います。
それは、父も母も同じ。
そんな風に、最近になって、思えるようになりました。
大人になったら、知識と経験で、立派になれると思っていたけど、そうではなく、あんまり変わっていない(-_-;)
結果的に、うまく愛せなかったとしても、これから、その時その時、精いっぱい愛していけばいいと思います。
不器用で、ぎこちなくても。
大人だから、親だからといって、なんでも完璧に出来るものじゃないのだから。